| ■講演会[第2部] | |||
| ●● | 「日本のプロジェクト論」 | ●● | |
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| ● | 番組紹介(VTR) <プロジェクトX 「富士山レーダー〜巨大台風から日本を守れ」> 「氷点下20℃、最大風速100mの突風が吹き荒れる富士山頂。ここに世界最大の気象レーダーが建設されている。気象庁富士山レーダー。36年前、レーダー建設にかけた名も無き男たちの壮大なドラマがあった。」 |
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「たった一つの言葉が、困難に打ち勝つ力になったプロジェクトがありました。富士山の山頂に世界一のレーダーをつくったリーダーの言葉です。」 「かつて富士山頂での難工事を率いたリーダー、伊藤庄助。逆境の中で、伊藤は一つの言葉を吐いた。『男は、一生に一度で良いから、子孫に自慢できるような仕事をすべきである。』」 「昭和38年、富士山頂で気象レーダーの建設が始まろうとしていた。氷点下20℃、最大風速100mの山頂に、世界最大のレーダーを築く、途方もないものだった。 きっかけは、伊勢湾台風。5,000人の死者が出た。日本を守る台風の砦が必要だった。日本列島を襲う台風は年間30。24時間前にとらえる場所は富士山頂しかなかった。 30人の作業員が山頂に登った。29歳の伊藤が、年上の男たちを束ねた。 山頂での作業は、想像を絶するものだった。地上の2/3の薄い空気、高山病で激しい頭痛と吐き気に襲われた。皆、山を下り始めた。伊藤も慢性の高山病に苦しみ、顔は青黒く腫れ上がっていた。このままでは工事は中止、台風の砦を築くことができない。伊藤は弱った身体で、逃げようとする作業員を一人一人、切々と口説きはじめた。 『男は一生に一度で良いから、子孫に自慢できるような仕事をすべきである。富士山こそ、その仕事だ。富士山に気象レーダーの塔ができれば、東海道沿線からでも見える。それを見るたびに、あれは俺がつくったのだと言える。子どもや孫にそう伝えることができる。』 伊藤の言葉が、作業員たちの心に届いた。昭和39年、富士山レーダーは完成。その後、35年にわたって日本を守り続けた。」 |
| ● | 「プロジェクトX」を企画した意図 最初に、テレビプロデューサーの仕事について紹介したいと思いますが、一番大事なことは、企画を考えることに尽きます。チームを作ったり、演出を考えたり、どのような編成にするかということを考えますが、どのようなテーマで、どのような人々が番組になり得るのかという、企画を探し続けることが一番大きな仕事です。 私は、テレビ1本にはあまり力はないと思っています。ただ、それが2本になり、3本になり、4本になった時に、1,000万人という動員力を持つテレビは非常に大きな力になると思いながら、今まで仕事をしてきました。ですから、薬害エイズ関係で10本、不良債権で10本、湾岸戦争関係で7本というように特集番組を作りながら、一つの世論につながっていけば良いと考えて番組を作ってきました。 そうした中で、この「プロジェクトX」の企画は、私自身がどうしてもやりたい仕事でした。それは、日本が人を大事にしない国になってはいけないという思いからです。 私は、日本の歴史は昭和20年から始まったと思っています。科学も技術も文化もほとんど根絶やしになるほどの状況の中から、今の日本を立ち上げ、育ててきたのは、サラリーマンと中小企業と地域の人たちの思いと、その人たちが作った数千、数万のプロジェクトの攻防戦の結果です。決して、政治的なスーパーリーダーが現れて引っ張ってきたわけではなく、地域のリーダーや会社の部署の中のリーダー等、そういう人たちを含めた一般の人たちの戦いの末に、今の日本があるのだと思っています。 例えば、京都のある小さな部品メーカーの例があります。妻が美容師で、夫は色々なプロジェクトを立ち上げますが、次から次へと失敗しました。しかし、やはり自分の会社を脱皮させたい、地域に貢献したいという思いから、色々なプロジェクトの変遷の末に、自動改札機の開発にたどり着いたのです。その中で磁気の技術を生み出し、それが後のATMになったり、パーキングメーターになったりして、ソシアルシステムを作り上げ、オムロンという会社が出来上がって行ったのです。 当時は、旧姓の立石電気と言っても誰も知らなかった会社でしたが、それが年間5,000億円、海外を含めて25,000人を抱える大メーカーに、ほんの数十年で育ったのは、幾つものプロジェクトに自分たちの夢をかけ続けた結果だと思います。 それから、長野県の諏訪では、生糸が崩壊して、まちが寂れていく中で、時計屋の主人たちが店裏を改良し、初めて取り組んだのがクォーツ時計です。クォーツ時計の開発の過程で、東京のマスコミから「信州の山猿が何をするのか」と揶揄されながら、クォーツを作り、プリンターを作り上げて、今やその会社は年商1兆円、海外を含めて65,000人を抱えるセイコーエプソンへと育ったわけです。 そのように考えますと、日本の戦後は、中小企業とそこに働くサラリーマン、そして地域の人たちが作ったプロジェクトが幾つも幾つも戦いながら、やっとここに至っていると思っています。 ところが、この10年、日本を襲っているものの中で一番悪しきものは、成果主義だと思います。成果主義とは「早く成果を出せ」「早く商品を市場に出せ」「早く金を儲けろ」という空気が日本社会全体にも、会社の中にも、技術開発の現場にも蔓延し、その結果、今まで常に個人が抱えていた「プロジェクトチームを作って、本当に良いものを作り出そう」という志が傷ついています。 世界一の技術力と世界一の営業力を持っている日本人が、国際競争で20位以下に甘んじているというのは、実は本当に今まで自分たちが戦ってきた、大事なものを作り上げて、誰も追いつかないものに育て上げ、完遂して世に問うて行くということを忘れかけているのではないかと思います。 そういう意味で、ゼロから挑戦し始めた日本人が、どう歩いてきて、どう戦うべきかということが、少しでも提示できればという思いから始めたのが、この番組です。 |
| ● | 他社番組との戦い ただ、そういう堅い話とは別にして、テレビはなかなか難物です。テレビの1%は120万人に当たります。したがって、テレビで10%の視聴率を取るということは、1,200万人の人に見てもらわなければならないことになります。 ところが、この企画に登場する方々は、一般の方々です。つまり、有名人が10人出れば、その人たちが持っている視聴率の1%や2%である程度の視聴率を稼ぐことができますが、先程の伊藤庄助さんを何人の人が知っているかと言うと、数百人とか千人規模です。テレビの視聴率的に言うと0.001%にも満たないわけです。ですから、これは企画としては地味過ぎて、厳しいのではないかという声は局内でも随分とありました。 それから、始めてみますと、これは非常に手間が掛かることが分かりました。1本の番組を作るのに3ヶ月半〜5ヶ月かかります。例えば、富士山レーダーの場合、どのような企業が参加して、どういう人たちが参加して、それが社会的必然として、どこから発生したのか、プロジェクトに参加した人たちはどういう思いで取り組んだのか、そこで起こったエピソードは何だったか等々を調べていきますと、膨大な資料戦になりました。1本の番組を作るだけで、プロジェクトルームには段ボールが30箱、40箱と積み上げられましたが、それでもなかなかたどり着かないくらい、一つのプロジェクトの歴史は壮大です。したがって、通常の手間ではないと思いました。 そういう状況下で、我々に与えられた時間は、火曜日の夜9:15という時間でしたが、実はこの時間帯は、NHKが10年、15年と負け続けている曜日と時間帯でした。新年度番組編成の時に、編成の人たちは「9:15という時間はニュースから連動して見るので、視聴率的に見て貰えるのではないか」考えたのですが、それはとんでもない間違いであり、一般の方々はNHKの8:55の天気と9:00のニュースを見た瞬間にチャンネルを変えてしまうのです。 ですから、我々が与えられた9:15という時間帯は、下り坂を転落していく途中で貰うようなものでした。上がっていく途中で貰うならともかく、下り坂を下っていく時に貰うテレビの視聴率は、想像できないほど落ちて行きます。ですから、どれだけ良い番組、良い企画だと私たちが思ったところで、皆さんに見て貰えない限り、その番組は早々に退場して行かざるを得ないのです。 もう一つ、火曜日というのも、実はNHKにとって最悪の曜日でした。その曜日は民放が非常に強いのです。まず、火曜日の9:00は、日本テレビが「火曜サスペンス劇場」を放送しています。私も番組が始まる前に、各局の番組を研究しなければならないと思って見たのですが、はっきり申し上げて面白くありませんでした。仕事の電話が掛かってきたり、トイレに行って戻って来ても、話の筋があまり変わっていません。そして、それを見ているといつの間にか1時間半くらい経っていて、どういうわけか皆が浜辺に集まり、浜辺で犯人が告白を始めるのです。この告白シーンまでが1時間半です。そして、いつの間にか2時間見終わっているのですが、見終わった後に何の印象も記憶も残らないので「この番組は何か」と思ってしまいます。 しかし、その時、気付きました。毎週、毎週、火曜日の9時台に17%も18%も視聴率を稼ぎながら、2時間も人に見せ続けるというのは、日本テレビの「火曜サスペンス劇場」を作っているスタッフは手練れで、人間の生理を知っています。つまり、番組を見て疲れさせないという生理を知っているわけです。これはなかなか強敵だと思いました。 その次に、東京12チャンネルが、普段は視聴率を4〜5%しか取れないのに、火曜日だけは「何でも鑑定団」というお化け番組を持っています。これは、正にバブル崩壊後に生まれた番組で、視聴者は自分の資産が目減りするのが気になる中で「あの掛け軸が幾らだ」「あの壺が幾らだ」と言われますと、我が家の背景を振り返ってしまいます。そういう視聴者の気持ちに上手くはまり込んでいる、非常に強い支持層を抱えている番組です。 それ以外にも、TBSは「ガチンコ」というボクシングを含めた格闘技で若者たちの闘争心を煽る番組を放送していますし、私たちが始めた頃には「ナースのお仕事」という女性に人気の高い番組が放送されていましたので、火曜日の9時台に放送するのは相当に辛いことだと思いました。 |
| ● | ドキュメンタリー番組の難しさ もう一つ、これはドキュメンタリーという番組の本質につながるのですが、取材を進める中で、とんでもないことが分かってきました。 最初に6本ほど同時並行で取材を始めた中に、胃カメラの回があったのですが、実は胃カメラは、昭和25年に、中国戦線から帰ってきた30歳の医師とオリンパスの33歳の技術者が、物資も何もない時代にガンから日本人を救いたいという思いで作り始めたものです。ところが、その胃カメラの取材をしている中で「私が胃カメラを開発した」という人が次々に局に現れたのです。合計17人が来ました。 何故かと言うと、胃カメラを最初に開発しようとした宇治達郎さんという人は、東大の医者でしたが、32歳で辞めて埼玉に戻り、町医者として人生を終わっており、自分が胃カメラを開発したことを誰にも言わなかったのです。息子にも話していません。彼は世界で初めて胃カメラを作ったということで、内視鏡学会でもガン学会でも頂点に行けるパスを持ちながら、退場してしまったのです。 また、オリンパスの杉浦さんという技術者は、胃カメラの開発に触発されて、オリンパスを辞め、人の生命や健康に係わる機器の開発に取り組みたいと考えて「杉浦研究所」をつくりました。彼も何も言わずに、その後の人生を医療機器の研究に費やしたわけです。 そうしますと、実際に作った人が退場したものですから、その後に入って内視鏡学会やガン学会のドンになった人たちがおり、そういう人たちが「何故、自分の所に挨拶がないのか」と次々に言って来たわけです。 これは胃カメラに限ったことではなく、実はCVCCもダイニングキッチンも同様で、調べて行きますと、本当の開発者や本当に取り組んだ人たちは、あまりそのことを自慢したり、語ったりせず、自分の胸の中に秘めて生きていることが多くて、逆にそのことを利用して、それを力にして生きてきた人が随分といたというのが現実です。また、そういう人たちは声が大きいのです。 先日も、我々は「浅間山荘」を放送しましたが、浅間山荘の事件は歪曲されて伝わっていると思います。あれは地域住民が牟田泰子さんを救いたい、自分たちの地域をこれ以上傷つけられるのは嫌だという思いで、クレーンの技術者を含めて、地元の人たち、消防団の人たちが総力をあげて警察に協力した、住民と警察が一体となったプロジェクトだったのです。ただ、浅間山荘事件で、警視庁から派遣された2人の警官が殉職しており、そのことは皆さんの心の中に影を落としています。 あの時の指揮官は長野県警の本部長だった野中さんですが、野中さんをはじめ、皆さんは30年近く、このことを「語るべき話ではない」と沈黙しました。ところが、その間に別の男が「私が浅間山荘の指揮官だ」と言いながら、本を書き、映画の主役になってしまったのです。そして間もなく、映画が封切られます。 このように、本当にそのことを成し遂げた人たちが消されて、逆に違う人たちがそのことを利用して力を持っているので、その人たちと戦わなければならなくなり、この番組は厳しい状況になると感じました。色々な形で叩かれたり、攻撃を受けたりする恐れもあり、そういう意味では、この番組は恐いという思いを抱いたのです。 |
| ● | 中島みゆきの曲の持つ意味 そうした中で、私はどうしても、私たちとこの番組を助けてくれる味方が欲しいと思いました。それが中島みゆきさんです。NHKに出した「中島みゆきさんに依頼したい」という企画書の文書には、70年代、80年代、90年代と、必ずナンバーワンのヒット曲を記録したことのある歌手と説明しましたが、本当の理由は別の所にありました。実は私が熱烈なファンだったわけです。 何故、ファンかと言いますと、一つに彼女の弱者視線があります。彼女はデビューして30年以上経ちますが、彼女の歌もメロディーも、決して高みに立って歌うことはありません。街角で生きる人や、サラリーマン、振られてもう一度頑張ろうとする女性など、必ず一般の人と同じ目線で歌い続ける数少ない歌手だと思います。 また、個人的なことを言いますと、私が文化庁の芸術祭等、色々な賞を貰うようになったのは12〜13年前からの話で、それまでは駄目サラリーマンで、地方を転々としていました。 10数年前に、初めて「ヒラメに踊る男たち」という活魚戦争の大きな番組を手掛けたのですが、日本海側のビジネスホテルを2ヶ月半も転々としながら、来る日も来る日もヒラメの相場戦を追い掛け、上手く取材が出来ずに「自分にはテレビのドキュメンタリーを作るのは難しいのか」と思っていました。その時に、有線放送から流れて来たのが、中島みゆきさんの「ホームにて」という歌でした。 「故郷に向かう最終に乗れる人は急ぎなさいと、優しい、優しい声の駅長が街中に叫ぶ」という歌ですが、非常に心が癒されて、何故、この仕事に就こうと思ったのかという最初の気持ちを忘れているのではないか、少しでも自分の作る番組や自分のすることが何らかの役に立って欲しいという思いからこの仕事を始めたはずなのに、全く違う方に自分の気持ちが向いていたのではないかと思い直すことができましたし、「それほど力むな」と、その歌が語りかけてくれているようにも思えて、それ以来、自分のテーマソングになりました。 湾岸戦争が起きて、ヨルダンのアンマンからイラクのバグダッドに突っ込む時も、モザンビークの内戦が起きて、レナモという世界最悪と言われたゲリラ基地に入って行く時も、お恥ずかしい話ですが、中島みゆきさんの曲をかけていたというくらいファンだったわけです。 したがって、中島みゆきさんが曲を書いてくれないなら、曲は要らないと思っていました。ただし、そう思うのは自分の勝手で、ヤマハに交渉したところ、二つの理由で難色を示されました。 一つは、その年の彼女のスケジュールが大変混み合っていて難しいということ、もう一つは、中島みゆきさんは一つの曲に集中すると、他のことに手が付かなくなるという理由でした。そして、今までも一つの番組のために曲を書いたことはないということでした。ドラマで彼女の曲が流れている場合は、必ずアルバムの中からカットして流しているので、新規に書き直すことはできないというのが事務所の方の話でした。 しかし、私は諦めきれなかったので、中島さんに手紙を書きました。ほとんどラブレターのような手紙で「何故、彼女のことが好きになったのか」ということから始まって、その中に5本の企画書を入れました。それは当初、取材をしようとしていた企画書です。 一つは、富士山レーダーの話。名古屋を中心として5,041人の人が伊勢湾台風で亡くなった時に、巨大な台風の砦をつくろうとして、富士山に登山の素人たちが遺書を胸に秘めて登り、苦節の末に富士山気象レーダーをつくった話です。 それから、青函トンネルです。北海道と本州は一つになっても良いではないかという思いで、海底23kmを24年間かかって掘り抜いた鉄道マンたちの話です。 VHSの話は、窓際に追いやられて、リストラ寸前と言われた部署にいた人たちの逆転のドラマです。 それから、先程紹介した胃カメラの話。 そして、もう一つが、ホンダCVCCです。排ガスで日本中が汚れていた時代に、技術者たちが「自分のつくるものが子どもたちや未来に悪しきものとして残ってはならない」という思いから、低公害エンジンの開発を始め、本田宗一郎さんと対決しながら、一つのエンジンをつくり上げていくという話です。 この5本の企画を書いて、彼女の元に送ったのですが、そうしますと、1週間後くらいに彼女から電話をいただき「私の所に来る話は、ドラマや演芸番組からばかりですが、今井さんの所属する社会情報番組はバラエティ番組ではないでしょうね」という疑いの電話でした。そこで「そうではありません。これは一生懸命に生きて、一生懸命に戦ってきた人の話を、思いを込めて作る番組ですから、それを分かって欲しい」とお願いしましたところ、その後、ヤマハの方から「中島が引き受ける」という連絡をいただきました。そして、彼女は仕事を3週間キャンセルして「地上の星」とエンディングテーマを作るために籠もったのです。 ですから、よく「歌と番組がマッチしていますね」と言われる人がいますが、そのように作ったのですから、それは当然です。ただ、その時に「ファンで良かった」と思いました。 歌の中に出てくる「草原のペガサス」とか「街角のヴィーナス」という歌詞は、彼女が企画書を読みながら、そこに出てくるサラリーマンや技術者や営業マンのことをどのように歌詞の中に書き込もうかと考えて、ギリシャ神話の世界にまで昇華させたものです。それが「ペガサス」や「ヴィーナス」という歌になったわけです。ですから、番組の冒頭で「ペガサス」や「ヴィーナス」という歌詞が流れる所では、必ず営業マンや技術者たちの顔が重なるように、彼女の思いが番組を裏切らないように編集しているつもりです。 |
| ● | 「プロジェクトX」を企画した意図 そうした思いも抱きながら、徐々に放送に近づいて行ったのですが、放送日が近づきますと、一番恐れていた事態が浮上してきました。それは企業名と商品名です。 NHKは公共放送ですから、テレビの歴史が始まって40年以上経ちますが、悪いこと以外で民間企業の名前や商品名を放送したことがありません。民放であれば、コマーシャル料の代わりに流すこともあるでしょうが、皆さんからいただいている受信料で、企業名を流したことはないわけです。 しかし、この番組を放送する場合、どうしても企業名、商品名を言わなければ、話としては成立しません。したがって、非常に懸念される事態になりましたので、その時に三つのことを申し上げました。 一つは、日本の歴史は昭和20年に始まったわけであり、民間企業や地域の人たちが色々な組織を作って頑張ってきたのが日本の本当の歴史、産業史なので、個別名称がなければ日本の戦後史、産業史を語れるわけがないという話をしました。 2点目に、これは民放では出来ないという話をしました。「プロジェクトX」には、これまで車だけでホンダのCVCC、マツダのロータリーエンジン、富士重工のスバル360が出てきましたが、それぞれ日本の戦後史、技術史の上では重要な車やエンジンです。それを堂々と言えるのは、NHKだけです。民放でホンダもマツダも富士重工も取り上げることはとても出来ないだろうという話をしたわけです。 3点目に、これは一番強く思ったことですが、社名はサラリーマンにとって命だということです。自分の会社の名前は、自分が歩いてきた歴史と重なるものだと思います。多くの場合、妻よりも付き合いが長かったりします。ですから、サラリーマン、あるいは組織に勤めている人も、自分の会社の名前が非常に大事であり、その会社 が好調な時は胸を張れますし、会社が傷ついたり、スキャンダルにまみれたり、叩かれたりした時は、本当に辛い思いをします。他人が自分の会社の悪口を言っているのを聞くと堪られない気持ちになります。 そのように、自分の所属している部署の名前は 非常に大事ですので、その社名を語らずに本当に皆さんに支持され、皆さんに救って貰える番組になるとは思えません。そこで、社名と商品名には非常にこだわりました。 ただ、しだいに恐れていた日が近づいて来ました。それは「窓際族が世界規格を作った」というVHSの回です。これはソニーとビクターのビデオの開発競争、そしてVHSとベータという商品も含めて、冒頭から最後まで企業名と商品名が続け様に出ます。この番組が、本当に皆さんに受け入れられるか、あるいは局内的に許されるものか、恐れながら、なかなか眠れない夜を迎え「何とか無事に放送されて欲しい」「非難があっても少なければ良いが」等々、色々な思いを抱きました。中島みゆきさんに守って欲しいと思ったり、ナレーションの田口トモロヲの声の力で番組を守ってくれないかと思ったり、あるいは、この番組に出てくる名も無き営業マンや工場の人たちが守ってくれないか等、色々な思いを抱きながら、VHSの回を迎えたわけです。 今日は、そのプロジェクトがどういう状況に置かれていたかという所と、そのプロジェクトを陰で支えた経理課長の話、リーダーのその後を短くまとめましたので、一度見ていただきたいと思います。 |
| ● | 「窓際族が世界規格を作った」(番組上映) 「世界の家庭の風景がVHSビデオの登場によって劇的に変わった。普及台数7億5,000万台、その革命的な装置は、日本人が初めて作り上げた世界標準規格である。その開発の陰には、窓際に追いやられながら夢を捨てなかった技術者たちの執念の逆転劇があった。」 「『プロジェクトX 挑戦者たち』今夜はVHSの開発にまつわるお話です。」 「私たちの世代は、テレビというと生なんですよね。力道山の姿を街頭テレビで一生懸命に見ました。それを録画して再生して好きな時に見られたら良いなという世代ですね。」 「私は小学校に上がった頃だと思うんですけれども、当たり前のように家にVTRがありました。VTRがないというのは考えられません。今では世界で7億5,000万台使われているわけですが、それが日本人が作ったものだというのは本当に驚きました。」 「その家庭用VTRを開発した人たちは、日本ビクターの技術者たちです。当時、業界では8位。しかも、この人たちはリストラ寸前の部署にいた人たちで、誰1人として、この家庭用VTRを彼らが開発するとは思いもしていなかったのです。」 「そういう人たちが立ち上げた家庭用ビデオ開発のプロジェクトは、30年前にスタートしました。」 「大小1万の工場が建ち並ぶ横浜市神奈川区。その一角にサラリーマンが仕事帰りの一杯を楽しむ居酒屋『きしや』がある。店がオープンして間もない昭和45年のことだった。 100mほど離れた日本ビクターの工場から毎日来ては、酔いつぶれるまで酒を飲む白髪頭の男がいた。男の名は高野鎮雄、47歳。会社のお荷物と陰口を叩かれていたVTR事業部の部長に就任したばかりだった。そこはリストラ寸前の部署だった。 当時、ビクターは深刻な経営危機に陥り、80億円あった営業利益は一気に30億円に激減していた。 高野が任された事業部は本社が設計した業務用VTRを組み立て、企業やホテルに売り歩くのが仕事だった。本社と切り離され、独立採算制をとっていたが業績は最悪だった。故障が多く、2台に1台が返品されて来た。社員220人の給料も賄えず、本社への借金が10億円に上っていた。職場に活気はなく、重苦しい空気が漂っていた。 事業部長を命ぜられた時、高野は1週間会社を休んだ。社内では『部長になれば、1年で首が飛ぶ』と噂されていた。」 (中略) 「経理マンとして、このプロジェクトを陰で支えて来て、今は会社を定年されましたが、VHSを作られたのを見て、どのようなお気持ちですか。」 「かなり昔の話になるのですが、わずかの人間で一つの夢を追い掛けて、何とかそれが出来たという、一つの自信と言いますか、サラリーマンとしてはこのような経験が出来てこんなに幸せなことはないと思います。今でもそれを誇りに思っていますし、私は良いサラリーマン生活を送れたという、そういう気持ちが今でもしています。」 「本日は、どうも有り難うございました。」 「高野鎮雄は、VHS発表から10年後の昭和61年、日本ビクターの副社長に就任した。その後も、何の前触れもなく横浜工場を訪ねては、女子工員一人一人にねぎらいの言葉をかけた。高野は全ての従業員の名前を覚えていた。 平成2年6月に副社長を退任。送別会には、苦楽を共にしたVTR事業部全員が駆けつけた。 『夢中でしたね。夢中というのは、素晴らしいことだと思います。‥‥』 高野はその2年後、突然、ガンで亡くなった。平成4年1月21日、高野の棺を乗せた車は、思い出の横浜工場に立ち寄った。社員全員が見送った。1枚の横断幕が掲げられていた。『ミスターVHS 高野鎮雄さん ありがとうございました』 高野の自宅の庭には、プロジェクトが失敗した時に部下一人一人に手渡すつもりだった盆栽が今も残されている。270鉢の松は妻・智恵子さんの手で接ぎ木されながら育ち続けている。」 放送が終わりまして、通常、反響の多い番組の場合、かかってくる電話は40〜50本ですが、2日間で5,000を超える電話と反響がありました。その多くは、中小企業で頑張っている人や、サラリーマンでした。 高野さんがVHSの極秘開発に挑もうとしたのは47歳の時で、完成した時が53歳、そしてVHSを世界の標準規格になし得た時は60歳を超えていました。サラリーマンで50歳と言いますと、今のサラリーマン生活では退場と言われるような時代の中で、幾つになっても頑張り切れるということを教えてくれたのではないかと思っています。 私もNHKの社葬も含めて色々な葬儀に出ましたが、高野さんの葬送の列の凄いのは、あの葬儀の列の中に、既に会社を辞めた女子従業員たちが主婦になって赤ん坊を抱えて並んでいたということです。高野さんの車が通るというだけで駆けつけたわけです。あれ程、自分の上司を送るのに頭を深く垂れて送る列というのはあまり見ることができません。 そういう意味で、大曽根さんという経理課長が言っていましたように「良いサラリーマン人生を送りたい」「良い仕事をして、充実した日々を過ごしたい」という思いが、その5,000を超える声になったのではないかと思います。 ちなみに、先程、高野さんが飲み潰れていた「きしや」という飲み屋ですが、その後、全国で「きしや詣で」が始まり、九州や北海道のサラリーマンが「きしや」に行って、高野さんが飲み潰れていた席に座っては「今からでも頑張ろう」という気持ちになるという、そういう光景が今も続いています。番組の中で「爆弾」というビールの中にウィスキーを入れる酒が出てくるのですが、メニューになかったその酒が復活するということもありました。 |
| ● | 「プロジェクトX」を通じて知ったこと この「プロジェクトX」を通じて、私が知らされたことは、まず、どんな職場にも、どんな地域にも凄い人はいるということです。 地味で目立たないサラリーマン生活を送ってきた男が、最後の10数年は別人のようなリーダーに変身したり、三原山が噴火した時に全島1万人を脱出させた秋田さんという人は、助役生活30数年で最後の瞬間だけ戦場指揮官のようになりました。そのように、どのような地域、どのような職場にも、凄い人は必ず眠っている、それが日本人の人材の豊富さ、日々コツコツと積み重ねてきたことの凄さだと痛切に感じました。 また、よく日本人は団体で行動するとか、臆病だとか言われますが、それは誤りであり、日本人ほど大胆な民族はいません。 日本という国は、地理地形に恵まれた国ではありません。年間28の台風が襲い、地震列島で、周りの四海も決して優しい海ではありません。瀬戸内海は荒れる海ですし、津軽海峡もありますし、日本海の叩き付ける海もあります。そういう意味では、これだけ国土に向き合って、ダイナミックに国土と戦ってきた民族はいないと思います。標高4,000m近い所にレーダーをつくろうとか、海底23kmにトンネルを打ち抜こうとか、海を跨ぐ橋を架けるというような、大胆不敵なことを考えるのは日本人しかいないと思います。 技術開発の現場においても、ロータリーエンジンも液晶もそうですが、あれは物真似したものではありません。世界中が投げ捨てた技術を拾い集めて、もう一度ゼロから構築して、日本人が世界の技術に育てたものです。ですから、そういう意味では、日本人の知力、発想の大胆さというのは、堂々と胸を張って自分たちのことを信じて良いと思います。 この番組は、始まりました当初は視聴率6〜7%の番組で、いつ終わるのかという声も囁かれていたのですが、先日「浅間山荘」の回で20%に到達し、延べ2,400万人、毎週2,000万人以上の人が見る番組になりました。 何故、番組が広がって行ったかというと、一つは口コミです。宣伝をしたわけではありませんし、あまりにも新聞も雑誌も書いてくれませんので、最初の頃は「プレジデント」に売り込みに行こうかと言っていたくらいです。ところが、渋谷の駅でサラリーマンたちが「プロジェクトX」の話をしていたとか、飲み屋でいつもカラオケを歌う連中が、テレビで「プロジェクトX」が流れ出した瞬間にそれに見入って、終わった瞬間に帰ってカラオケを歌わなかったとか、そういう話が次々に寄せられる中で、皆の声が少しずつ番組を押し上げてくれたのだと思います。 実は、中高年の番組だと言われていましたが、増えた1,500〜1,600万人の視聴者は10代と20代です。50〜60代のテレビと言われて、絶対にNHKのテレビを見ないと思われていた10代、20代が、1,000万人近くもこの番組を見てくれているというのは不思議なことだと思っています。色々なメールや手紙をいただきましたが、若い人が一番多く書いているのは、仕事のことと親のことです。 18歳の青年は、自分の父親は家に帰るとマグロのように寝ているだけの男だと思っていたそうですが、この番組を見るようになって「親父も会社で相当に頑張っているのだろう。親父は家では語らないけれども、色々な仕事の中に、家族のため、社会のために一生懸命に生きているのだろう」と思い始めて「親父と一度酒を飲んでも良い」と思うようになったそうです。それで、先日、とうとう父親と一緒に酒を飲みに行き、父親が何を話しているか全く分からなかったけれども、話を聞いたというメールをくれました。 また、14歳の女の子は、父親が建設業に勤めていて、汚れた作業着で帰宅するのが格好悪いと思っていたそうですが、「プロジェクトX」を見るようになって「作業着はとても格好良い。勲章の洋服だ」と思うようになり「私は作業をして汚れたお父さんと、手をつないで歩くのが誇りになりました」というメールを送ってくれました。 そのように、今の若い人たちは何も考えていないかというと、決してそうではなく、親の背中を見ているのです。親は一番身近にいる見本ですから、親がどのように生きているのか、親は何を考えてどういう日々を送っているのかということを子どもたちは見ています。 また、若い人たちは、必死に仕事を探しています。どういう仕事にたどり着けば、自分の人生を充実して過ごせるのかと考えています。この「プロジェクトX」に出てくる、先程の大曽根さんもそうですが、黒部をつくった大まむしというあだ名の中村精さん、東京タワーのとび職人である桐生五郎さんなど、そういう無骨な男たちの顔が「魅力的で格好良い」という声が返ってくるわけです。桐生五郎に至っては、ファンクラブまで出来てしまいました。 それは、やはり分かるからだと思います。自分が人生の中でやってきた瞬間、瞬間のことを真剣に語ってくれる人は、若い人にとって非常に魅力的なのです。「俺は金持ちだ」「俺は地位がある」と言われれば言われるほど、若い人たちは嫌なのです。そういうことを聞きたい人は誰もいません。しかし、その瞬間をどう生きたのか「あのネジ1本」「あの釘1本」にどのように向き合ったのかという話は、やはり聞いてくれるのです。 そういう若い人たちに支えられながら、また新たな展開をこの番組で図っていければと思っています。 |
| ● | 成功するプロジェクトの三つの条件 この番組の中で成功するプロジェクト、失敗するプロジェクトを幾つも見てきましたが、成功したプロジェクトには欠かせない三つの条件があります。 <テーマ性> 一つは、テーマ性です。先程のVHSのプロジェクトについて、その後、新聞や雑誌が「270人の部下をリストラから守ったリーダーだ」と書きましたが、実は違いまして、高野さんが言っていたことは「新しい産業革命を興そう」ということだったのです。 つまり「VHSの家庭用2時間ビデオができれば、家庭の風景が変わるだろう、仕事でナイター中継や劇場中継を見られない人が帰宅して見ることができるだろう、皆で映画を観る機会も生まれるだろう。そうすれば、日本人が作ったものが世界の家庭の風景を変えられるかもしれない。その時に自分たちは産業革命の一端を担っているのだ」と部下に言い続けるわけです。ですから、部下もそのためなら身を殉じても良いと思ったのです。 あれが「金を儲けよう」とか「昇進させる」と言っていたら、やはり人は動かなかったと思います。自分の取り組んでいるテーマが何らかの社会や人のためになるという熱い気持ちを皆に呼び起こしたから、あのプロジェクトは成功したのだと思います。 また、ホンダのCVCCエンジンの場合は、プロジェクトルームに標語が貼られていました。それは「青い空を取り戻そう」という標語でした。スピードに生きてきたホンダの技術者たちが「汚れた環境を次世代につなげてはならない」という思いの中から、アメリカのフォード、GM、クライスラーというビッグ3ですら出来なかった低公害エンジンの開発に挑戦したのです。それは、自分たちの子どもたちに、親として何を残すかという究極のテーマだったのです。 CVCCの場合は、最強の敵がいました。それは本田宗一郎さんです。本田さんは伝説の天才的な技術者ですが、機械の人であり、化学の世界であるCVCCとは相容れないものがありました。そういう中での開発になったわけですが、あれほど、愛して慕って、神様と思っている人と、若手社員が対峙できたというのは、やはり「青い空を取り戻そう」というテーマがあったからだと思います。 日本の成功したプロジェクトは、皆、そういうテーマを持っています。黒部ダムの指揮官だった中村精さんに聞きますと、やはりエネルギーをつくって、ダムをつくって、山の上から家々に灯がともり、まちが生まれた、人の暮らしが生まれたと思った瞬間が最高の喜びだと言われました。そういう時が、電力という仕事に携わっていて良かったと思うそうです。 皆、それぞれ自分が掲げる思いやテーマがなければ、なかなかプロジェクトは厳しいようであり、採算ベースで金を儲ければ良い、誰も必要としていないのに、何らかの必然性を作ってとにかく作れば良いというのでは駄目なのです。 自分たちが標語としているテーマは、たった一言で良いと思います。5項目も6項目も書き綴らなくても「これが出来ればこうなる」「こういう気持ちでこのテーマを設定した」という、一つのテーマを持っているかどうかが、そのプロジェクトにとっては極めて重要なことだと思います。 <プロジェクト・メンバーの技術> 2点目の条件は、プロジェクト・メンバーの技術です。プロジェクトというのは、基本的に恵まれた状況の中ではスタートしません。未来を変えたいとか、逆境にある会社の命運を切り開いて欲しいとか、貧しい地域を豊かにして欲しい等、無理難題の条件の中からスタートします。 そうしますと、当然、プロジェクトは、新たに色々なものを生み出していかなければなりませんし、トラブルも色々と発生するわけです。人の想像を超えたトラブルが発生しますし、新しいものにチャレンジするには着想が必要です。 そうした時に、優秀な大学を卒業した優秀なメンバーを集めたらプロジェクト・チームが強いかというと、それは間違いであり、多種多様な分野を生きてきた様々な技術を持った人を集めなければなりません。その時に、サラリーマンには技術がないと思っている方もいるかもしれませんが、それは違います。一つの経理を極めた人、一つの営業を極めた人、一つの管理を極めた人というのは、必ずその道のプロになります。それは突き詰めていけば、技術になるのです。 例は違いますが、ナホトカ号重油流出事故という、石油を運んでいたロシア船籍のナホトカ号が転覆して、日本海の沿岸地域が油まみれになったという事故がありましたが、その時に一番問題になったのは、送られて来る物資の対処でした。数十万点の物資が送られて来て、現場は大混乱になったのです。食料や衣類、電化製品、その他色々なものをボランティアで送って貰うのは良いのですが、それが山のように積まれて、どのようにしてどの地域に配れば良いか、誰にも分からなくなったのです。 その時に現れたのは、会社を定年して2年になる62歳の倉庫会社の係長でした。彼は巨大な物資を前にして「倉庫は真ん中を25〜30%空けなければならない」「先入れ、先出し」「時計回り」等々、40年近く倉庫会社で覚えた技術をナホトカ号のプロジェクトに注いだのです。それで初めて、あのプロジェクトが動いたわけです。 このように、極めた技術というのは、とんでもない力を発揮します。したがって、そのような技を持ったメンバーをどのくらい集めることができるかということが、次に大きな条件になると思います。 <リーダーの言葉> 3点目の条件は、リーダーの言葉です。冒頭でも伊藤庄助さんの言葉を紹介させていただきましたが、リーダーというのは鬼でも仏でもありません。プロジェクトのリーダーになられる方は、会社においては中間管理職が多く、地域においては小さな自治体の長が多い等、スーパーマンはいないのです。鬼にも仏にもなれないで、迷って迷って迷い続けるわけです。しかし、やはりプロジェクトを成功に導かなければなりませんし、プロジェクトに係わっている人たちに勇気や活力を与えなければならないのです。 その時に大事なのは、リーダーが自分の言葉を持っているかどうかということです。VHSを開発した高野さんは、自分の仲間にも決して「下請け」という言葉を言いませんでした。VHSを極秘開発する中で、町工場の人と会った時に、必ず「協力工場」という言い方をしました。「協力工場」という言い方をしながら「お前の所がなければ、俺の工場は動けない。お前の所と俺の所は一緒に生きて行くんだ」と言い続けたわけです。高野さんの置かれた状況も苦しいのですが、聞いている人は「この人は本当のことを言っている」と思います。それは、使い分けをしていないからです。部下の前でも「協力工場」という言い方をして、「下請け」という人がいると「失礼なことを言うな。一緒に生きてくれている仲間ではないか」と怒鳴りつけました。その言葉は届いていくのです。 そして、自分の人生の中、自分の仕事の中を突き詰めて来た人は、必ず自分の言葉を持っているはずです。言葉というのは、貸借対照表の中にもあるし、ネジ1本の中にもあるし、自分が突き詰めた技、自分が突き詰めた日々を考えた時に、必ず自分の言葉を持っているものだと思います。 先日「リーダーたちの言葉」という本を書きましたが、やはり凄いと思いましたのは、それぞれの人でなければ言えない、その人だけが言える言葉に必ずたどり着いているという点でした。 もう一つ、この「プロジェクトX」に登場した人の中で、私の好きな人の1人に西堀栄三郎という人がいます。彼は南極越冬隊の隊長でしたが、彼は元々東芝の技術者で、戦後、初めて日本で真空管を作り、その後、システム・エンジニアリングとして、敗戦後の日本の工場や会社の建て直しに全半生をかけたという人です。その彼が「リーダーにとって大事な条件とは、部下に成功体験を持たせることだ」と言っています。 このような時代になりますと、部下は、皆「自分のことをどう見てくれているだろうか」「自分の評価は何なのか」「自分が本当にやっている仕事を見てくれているのだろうか」という疑いの気持ちを持っています。その時に、出世や昇進をちらつかせても駄目です。やはり、人というのは、自分がしていることや、自分の日々をきちんと見て貰えているのかどうかということが、重要だと思います。 その時に、例えどんなに小さな成功でも「お前の仕事は非常に良い成功を収めた」と言って、部下に小さな成功体験、小さな上昇志向を持たせていくことが、リーダーにとっては非常に大事なことだと思います。そういう意味で、優れたリーダーとは、部下をどのように成功させるかを考えています。そして、成功した戦略は必ず独り立ちしてプロジェクトを助けてくれると信じているのです。 恐怖型のリーダーは駄目です。怒鳴ったり、殴ったり、大声ばかり出しているリーダーは不信感を助長させるだけですから、そういう恐怖型のリーダーの下で上手くいったプロジェクトはありません。愛を感じさせない、心を感じさせないプロジェクトで上手くいったケースはないのです。 したがって、プロジェクトリーダーになることは厳しく、難しいことですが、リーダーは、その悩みの中で自分自身が大きくなる、自分自身の試練の場と受け止めて生きるべきだと思います。 |
| ● | 最後に 最後に「プロジェクトX」の話をしたいと思います。先程、放送前の危惧をお話ししましたが、「いつまで続くのか」等、色々な声もいただいており、1年目が終わった時に「1年間、有り難うございます」と頭を下げたところ、放送が終わったと思われて全国から抗議の電話が殺到し、対処に大わらわとなりました。 やはり、これは世紀末に生まれた番組ですし、今、この番組を見て「元気が出る」「活力が湧いてくる」あるいは「明日頑張ろう」「今週は頑張ろう」という声をいただいている限りは続けたいと思っています。 また、この番組を始めた頃に「何故、公共工事を取り上げるのか」というようなご批判もありましたが、放送を続けていますと「日本人にとって大事なことであれば、どういうことでもきちんとやるべきではないか」と言っていただけるようになりましたので、そういう意味では、会社の問題でも、企業名が出ようが、公共工事であろうが、本当に大事だと思うプロジェクトはきちんと取り上げていくのがこの番組の使命だと思っています。ですから、作り始めた時の制作スタッフのテンションが続く限りは、少しでも頑張り続けたいと思っています。 最後に、この番組に込めた思いを一言、言わせていただきます。「思いは叶う。どんな逆境の中でも、努力する人を運命は裏切らない。思いは叶う。」 本日は、どうも有り難うございました。 以 上 |
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